サブタイトルが「ドイツ人住職が見た日本仏教」なのだ。なんとドイツ人が日本で修行を積み、安泰寺の住職となった経緯を書き、仏教の教えとは何かを説く希有な新書である。

ドイツで生まれた著者は、幼い頃母親を亡くし、孤独な子供時代を過ごす。高校時代に出会った坐禅に魅せられ、出家して坊さんになることを夢見て単身日本に渡った。しかし日本で出会った仏教は堕落しており、住職は単なる葬式業者でしかないことに気づく。それでも禅寺で過酷な修行を積み、禅の本質、仏教の意味を追求していくのだ。やがて理不尽とも思える苦行を乗り越え、安泰寺の住職になるまでを綴っている。

大半の日本人が忘れてしまった、否、出会ったことすらない本物の仏教。その仏教の本質を、この本は教えてくれる。京極夏彦の傑作「鉄鼠の檻」を読んだ際、その「禅の解釈」の秀抜さには、非常に知的興奮を覚えた記憶がある。この本はそれに匹敵するほどの面白さだ。

長年の惰性や習慣、風習としか残っていない仏教行事も、今では単なる風変わりな文化でしかない禅も、元をただせば生きることの意味を追求するための方法論だったのだ。その本質が長年の間に忘れ去られ、形骸化された行動様式だけが残っている。

この本は外国人である著者が、日本文化に慣れ親しんでいないからこそ、禅の本質に気づき、理論立てて説明ができるのだ。「仏教は、仏になることを目指す。仏とは、死んだ人のことではなく、目が覚めた人である。」つまり、この「目が覚めた」状態が「悟り」であり、頭で理解するだけでは、この境地に到達できないのだと言う。

「禅問答」といいう言葉があるように、禅の思想は理解しづらい。理論と言うより、苦行を通じて体感し会得することを重視しているようだ。だからひたすら修行を積ませ、頭で考えることを放棄させ、修得させる。

そういえば、この肉体と精神の関係性を、ロボット工学や人工知能でも語られていることが面白い。コンピューターに知性を与えるためには、「身体性」が必要だというのだ。

日本の伝統文化である茶道、華道、香道のような「XX道」は、何事も形から入る。最初に形式・型を覚えてから、その型に宿る精神を学んでいるようだ。もっとも、せっかくその形を覚えても、大半の人はその本髄までは理解できず、時とともにその形しか残らないのだが・・・。

ま~この「迷える者の禅修行」は、ドイツ人修行者が語る自叙伝であり、禅の解説本であり、優れた比較文化論でもある。また悩める若者が成長する過程を描いた青春ものとしても読める、ユニークな禅の入門本なのである。