スポーツ小説の傑作「風が強く吹いている」、直木賞を受賞した「まほろ駅前多田便利軒」、と、人情味溢れる傑作を書いている三浦しをん。今度は、人形浄瑠璃・文楽の世界に打ち込む若者を、爽やかに描いた作品だ。

文楽に青春のすべてをかける健は、ある日恋をする。芸を極めるべきか、恋を成就させるべきか。義太夫を語る大夫は、そんな悩みすら芸の肥やしにしていくのだった。

人形浄瑠璃という日本の古来の人形劇。一昔前だったら、日本人ならみな楽しんでいたであろう大衆演芸。今では一部のコアなファンしか知らない古典芸能だ。歌舞伎や狂言だったら、我が輩も一般教養レベルで観たことはあるが、さすがに人形浄瑠璃は観たことはない。そんなサブカルチャーになりつつある由緒正しい芸能に、ひょんなことから惚れ込んでしまった若者が、「芸」の真髄に触れようと、全身全霊をかける様を描いているのだ。これが実に面白い。

芸術・芸能に打ち込む姿を描いた傑作は数多い。小川洋子がチェスの世界を描いた「猫を抱いて象と泳ぐ」、恩田陸が舞台演技を描く「チョコレートコスモス」。
最近読んだ小説だけでもいくつかあるが、どれもその描写力たるや凄まじい。チェスの指し手は、盤面の海を駆け抜ける唄となり、オーラを放つ演技は、舞台に草原を出現させるのだ。

この「仏果を得ず」でも、健の義太夫は人形に命を与え、生身の人間以上に情感を表し、観客の魂を振るわせる。「芸」とはなんとも凄まじいものなのだろう。人を一生虜にし、すべてに最優先し、好きな女性に対しても「義太夫が一番」と言い切ってしまうほどなのだ。

伝統芸能でも、世襲制でない人形浄瑠璃の世界は、才能と努力で勝ち残る実力の世界。しかしこの小説の魅力は、芸を極めようと奮闘する若者の生き方だけに、あるわけではない。わがままで強烈に個性的だが人情味溢れる人間国宝の師匠たちと、寡黙で人付き合いの悪い兄弟子(あにでし)兎一郎。これらのくせのある脇役たちとの、掛け合い漫才のような「しゃべくり」も実に楽しい。
伝統の世界に生きていても、今時の若者である健は、メールもすれば恋いもする。等身大の現代の若者が、芸に、恋に、全力をつくす青春物語なのだ。お薦めです。