梅田望夫、平野啓一郎「ウェブ人間論」★★★★ 新潮新書 203

確かに我々は、インターネットやケータイが使えない生活を、今や想像することすらできなくなってきた。わずかここ10年の間にである。『ウェブ進化論』の著者として一躍有名になった梅田望夫と、芥川賞作家の平野啓一郎という異色の組み合わせで、人々の生活スタイルまで一変させたWebの進化の行方について、討論した結果が、この刺激的な新書なのである。
パソコン通信の時代、Mosaicしたインターネット黎明期、Netscape2.0が全盛だったインターネット普及期、ブラウザ戦争があり、そしてブロードバンドの現代まで。インターネットの進化の歴史10年を、我輩は同時代の目撃者として、インターネットの変化とその社会的インパクトを感じ取ってきた。その意味では梅田望夫とほぼ同じ感覚なのである。しかしわずか1年前に書いたばかりの『ウェブ進化論』の感想においては、まだこのWeb2.0という言葉さえ懐疑的であった。朝令暮改が当たり前のIT世界の新語を、大新聞までが取り上げることに、まだ違和感を感じていたのだ。ところがその後は、Web2.0どころか「ロングテール」や「集合知」まで朝日新聞の家庭欄で解説するようになり、ますますインターネットの世界がリアル社会を侵食しだしているのだ。旧来からのIT世界の住人である我輩としては、世間一般の人々がロングテールなどという泡沫用語を、実は教養としてなんぞ捉えて欲しくは無いのだ。
それにしても、文学者である平野がもうすぐ本は無くなると言い、逆に技術系の梅田がそう簡単に本は無くならないという。エンジニアは実現させるための技術的ハードルの高さを知っているので、あまり無茶な発想はしないものなのだ。一般的に技術は、リニアに段階を追って漸進的に発達していくのだが、利用方法のほうは技術が一定レベルを超えた瞬間に、技術者が予想もしない方向で爆発的に普及していき、人々の生活スタイルを一変させてしまうことがある。かつてはウォークマン、今のiPod。ケータイ電話も最初はショルダーバック型だったが、手のひらサイズになった瞬間に爆発的に普及した。HDレコーダーが普及しだすと、とりあえずTVで見そうな番組は全部録画しておき、CMを飛ばしながらツマミ食いして視聴するスタイルが当たり前になった。それどころかユーチューブがあれば、見逃したTV番組があっても誰かがアップしているはずなので、TV録画する必要さえなくなったという。
考えてみればユーチューブという名前が一般的に知られるようになって、まだ1年も経っていないのだ。技術的に目新しいことがまったく無いのに、無料のビデオ投稿サイトという単純なアイデアが、半年足らずで一気に世界的メディアにまでなってしまうのは、とても尋常な社会とは思えない。グーグルのノーテンキなエンジニア達が、技術的興味や知的好奇心を満足させるためだけにインターネット社会の進化を驀進させていくことは、果たして人類にとって良いことなのだろうか?
ここでまたもや小松左京を思い出してしまった。1978年に出版された『偉大なる存在』というSF短編なのだが、これは次のようなストーリー。白衣、白髪の奇妙な老人が予言した同日同刻、それも、全地球連邦が地球圏外からの巨大受信システムを作りあげた当日に、人類がはじめて宇宙からメッセージをうけとったのだ!大多数の科学者は当然考えた、話がうますぎると。しかし、つぎつぎと発表されるデータによれば、信号源は意外にちかく2.5光年ほどの距離からだった・・・。
この小説の白眉は、ファーストコンタクトのアイデアではなく、人類の期待通りの宇宙人をも創造してしまう存在がいるのではないか、というものなのだが、我輩は科学者達が何とか別の解釈で合理的説明をするためのアイデアの方に脱帽してしまった。それは、コンピューターが極度に発達すると、人間の精神活動に極めて近くなり、神経症的な振る舞いまでするようになる。このため強烈な印象深い事象があると、「暗示」にかかり易くなり、ちょっとした誤報をきっかけにノイズデータから有意味な情報を無理やり拾い出してしまった、というもの。コンピュータが暗示にかかるという発想も面白いのだが、証券取引において株のコンピュータによる自動売買が、株価の急激な乱高下を引き起こしたという経済記事を昔読んで、ニュアンスは異なるのだが、このアイデアを思い出してしまった。つまり、情報の伝達や処理能力が極端に速くなると、処理能力が低い人間が介在しないために瞬間的にパニックになりやすくなる、ということである。「情報」を解釈して体系化したものを「知識」と言っていると思うのだが、インターネット社会はこの情報だけをあっという間に伝達するのだが、その解釈までは伝えない。というか冷静な判断があったとしても膨大なノイズによって埋もれてしまう場合が多い。このため誤報だろうが何だろうが、経済的インパクトがある情報の伝達速度はますます速くなっていくのだ。したがって今後のインターネット社会の行方は、それこそ小松の想像したような「ビクビク社会」とでも言える神経症的な社会になるのではないのだろうか。
話を戻すと、この梅田望夫は、変化し続けるWeb世界に常に追従しているが、基本的に楽観視している。というか、変化そのものは追認し、そこで如何に生きるかを考察する。文学の世界に生きる平野啓一郎は、どのようなWeb社会にすべきなのか、そこに至るにはどうすれば良いのか、と考える。この2人の考え方の差は大きい。このままエンジニアの暴走を追認するだけでは、前述したような「高度ビクビク社会」になっていきそうだと我輩は感じている。ここは文学者や哲学者が別次元からの解釈や処方箋が必要なのではないのか、こんなことを考えさせられた討論集であった。