ついに出たのである。第130回直木賞を受賞した妖怪小説の大傑作。『巷説百物語』シリーズの三作目であり、最終章なのだ。数ある京極小説の中でも、我輩が最も気に入った作品の一つでもある。
『巷説百物語』『続巷説百物語』『後巷説百物語』と続いてきたが、この三作目ではとうとう明治時代になってしまう。妖怪たちは江戸時代だからこそ、(変な言い方だが)生き生きとしていたのに、と思っていたら、さすが京極。ここは仕掛けを用意してあり、お話はちゃんと江戸時代にあったのだ。
文明開化の明治十年。珍奇な話が好きな巡査が、隠居老人に怪異談の真偽を確かめに訪れる。かつて諸国を巡って沢山の不思議話を集めていた老人は、若者達に今は亡き妖怪たちの物語を話し始める。
一度入ったら二度と出られぬ孤島の話『赤えいの魚』。妖かしの火を消した話『天火』。70年生きていた蛇の話『手負蛇』、動物とも人間とも分からない山男に助けられた話『山男』。青鷺が変じた青白く光る女から子供を授かった話『五位の光』。百の妖しい話をすると怪事が起こる『風の神』。
このシリーズは妖怪小説と言われながらも、実は妖怪はまったく出てこない。厄介ごとがあり、それをなんとか解決して八方丸く治めるために、「御行の又市」は妖怪を持ち出して大芝居を打つのだ。「この世には不思議なことなどなにひとつない」と言い切り、あくまで妖怪は人の心の奥底に潜んでいるだけ、といういかにも近代合理主義的解釈に貫かれた小説なのである。同時に、文明開化の近代になって、過去の遺物である妖怪変化たちは居場所が無くなり、とうとうお話の中にしか住めなくなった寂しくも哀しい物語なのだ。
言わば、宮崎駿の「トトロ」の中で、メグがお化けの「ススワタリ」を見つけても、学者のお父さんは「明るいところから急に暗いところを見ると、(暗い影が)見えることもあるよ」と実につまらない説明をするのと同じ構図なのだ。結局最後まで、大人にはトトロは見えず、子供にしか見えないのである。近代社会は、お化けや超常現象など説明できないものは、すべてファンタジーに押し込めて排除することで成り立っている。しかし人は合理主義だけではあまりにも息苦しいので、それこそ妖怪小説なんぞを読むのだ。オタクたちは合理主義の結晶であるパソコンの世界の中に、異次元のファンタジーを構築して逃避するのだ。
それにしても京極は、そんな近代人のアンビバレンツな心象を良く理解しているので、妖怪が出てこない妖怪小説を書いているのだろう。この小説の主人公であり、諸国を巡って怪異話を集めてきた百介は、目撃したすべての怪異には仕掛けがあることを知っていたのだが、本当は本物の怪異に出会いたかったのではないだろうか。最終話で人生最後の仕掛けをした百介は、怪異を見せる方ではなく、本物の怪異を見たかったはず。近代人が理性では否定していても、どこか心の奥底では信じていたいファンタジーを・・・。り~~ん。