難解で非常に読みづらい箇所も多々あるのだが、実に面白いオタク論。2000年4月初版なので、東浩紀の話題の本『動物化するポストモダン』よりも、先駆的・画期的著作と言える。あの、まだまだオタクが文化として認められていない時点において、ナウシカやセーラームーンといった「戦闘美少女」を、ごくまっとうなサブカルチャーとして分析してみせたことは、実にえらい。というか、現場の一線級の精神科医にしては、勇気ある行動と言える。
日本のマンガやアニメには、ナウシカ、セーラームーン、綾波レイのような「戦う少女」のイメージが溢れている。アメコミによくあるマッチョなアマゾネス系女戦士とは異なり、「トラウマ」を持たない可憐で無垢な戦闘美少女たち。この特異な存在は、果たして日本文化のみに見られる現象なのか。彼女らを偏愛するオタクの心理的特性を、セクシュアリティの視角から徹底的に分析する社会批評論なのだ。
東浩紀はこの文庫の解説の中で、『戦闘美少女の精神分析』に触発され『動物化するポストモダン』を書いた、と述べている。しかし、同じオタク分析論でも、セクシュアリティの観点から分析している斉藤に対して、社会学の観点から分析した東とでは、立場が異なっている。
斎藤は、おたくとマニアを峻別し、「虚構のコンテクストに親和性が高い人 、 愛の対象を『所有』するために、虚構化という手段に訴える人 、 二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人 、 虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる人」
という特徴づけを与え、単純な二次元ロリータ趣味ではないことを強調している。
続いて斎藤は、「戦闘美少女」とはペニスと同一化した少女=ファリック・ガールであるとし、「ファリック・ガールには外傷がない」「ファリック・ガールの戦闘には十分な動機が欠けている。つまり徹底して空虚なイコンだとしている。
そして、「われわれが共有する幻想とは、いまやほとんど一つのこと、すなわち『われわれが大量の情報を消費しつつ生きている』という幻想のみである。メディア空間に晒された人々が『情報化幻想』にひきこもろうとするとき、そこにリアリティの回路を開くべく」ファリック・ガールが顕現し、「われわれが彼女たちを欲望した瞬間、そこに『現実』が介入する。過度に情報化を被った幻想の共同体で、いかにして『生の戦略』を展開すべきか。それがいかに『不適応』に似て見えようとも、ファリック・ガールを愛することは、やはり適応のための戦略なのだ。ファリック・ガールを愛することは、自らのセクシュアリティという『現実』に自覚的であるために、われわれ自身が選択した一つの身振りにほかならないのだ。したがって私はオタク的な生の形式を全面的に肯定する。」と結論付けている。
全編この調子なので、論旨の展開についていけなくなるが、この意見に賛成でないにしても、見識としてはユニークで面白いのだ。