さすが京極夏彦、極上の時代小説なのだ。京極の小説の中で我が輩が最も好きな短編集「巷説百物語シリーズ」の第四弾なのである。
短編といっても、6編で737頁なので、1つのお話が100頁以上あり、たっぷり堪能できるので嬉しい。並の作家なら上下に文冊するところ(海堂なら3文冊)だが、京極ならこれで標準的な分量なのだ。
大阪から江戸に流れてきた双六売りの又市は、今のレンタル業に相当する「損料屋」から、裏の仕事を請け負っていた。それは、八方塞がりで困った人から、大金と引き替えに妖怪のからくりを仕掛け、その状況を一気に解決する闇の仕事だった・・・。
部屋いっぱいに体が膨れる「寝肥」
木より大きなガマ蛙「周防大がま」
頭にも口がある「二口女」
など六編
「巷説百物語」で活躍する又市が、まだ若い頃にどうして全国を渡り歩くような事を始めたのかが語られる。
しかし相変わらず理屈っぽい語りだ。闇深い江戸時代のお話なので、妖怪だのお化けだのをいくらでも登場させても良さそうなのに、「仕掛け」でしか妖怪を出そうとしない。
主人公の又市は、徹底した合理主義者で、神仏妖怪のたぐいを真っ向から否定している。博学の学者「久瀬棠庵」も、妖怪の歴史や伝承にはやたら詳しいのに、すべからく妖怪は民の心が生み出したものだと、決して信じていない。それどころか、迷信の合理的な説明までしてしまうのだ。
その意味において、この妖怪が登場しない「妖怪小説」は、時代小説の形式をとってはいるが、近代的合理主義精神の「成果」とも「果て」とも言えるのだ。
それにしてもま~、ここまですべての事象を合理的に説明しても良いのだろうかと、逆に心配してしまう。「トトロ」は京極小説に登場する「お化け」と同じようなものだが、子供には見えるが大人には見えない。宮崎ハヤオはお化けを全否定せず、子供の心の中には住んでいるものだ、という解釈だ。大人は「ススワタリ」が見えても目の錯覚と否定してしまう生き物であり、近代的合理精神が「お化け」を消滅させた原因としているようにも思える。
江戸の深い夜の闇は、明治時代になるとガス灯の光が一掃してしまった。お化けたちは住むところが無くなり、やがて消えていったのだろうか。