そう、僕が村上春樹を読み始たのは、三十年ほど前のことだった。本好きの知人が、まだあまり知られてないけど面白よ、と言ったのが出会いだった。当時は僕の周りにも、今と違って文学青年くずれが、何人も生息していたのだ。
デビュー作「風の歌を聴け」から始まり、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」。どれも読んだ当時は、とても新鮮な感覚を覚えたのだ。
当時の文学作品は、まだまだ眉間にしわ寄せて読むイメージがあり、お気楽に読めるような代物ではなかった。もちろん推理小説は確固たる地位を築き、SFは黄金期を迎えていた。しかしこれらは文学作品とは認められておらず、単なるエンターテイメントの位置づけだったと思う。ま~それでも庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」や三田寛「僕ってなに」はすでに芥川賞を受賞していたので、文壇にも新風が吹き込んでいたことは確かだった。それでも80年代前半までは、村上春樹はマイナーな存在だったのだ。これも「ノルウェーの森」を出すまでだったのだが。
この「走ること・・・」という、長たらしいタイトルの本は、エッセーではない。ランナー村上春樹の、おそらく初めての、個人史なのだ。昔は村上春樹の著作を、僕も網羅的に読んでいたのだが、インターネットも存在しない時代だったので、作家の素顔はほとんど知らなかった。売れっ子作家になると、大概がエッセーを出すので、フツーは身辺情報が知られることとなる。しかし、そう言えば村上春樹・個人に関する話は、僕は読んだことはなかった。その意味で、この本は貴重な本なのだ。
作家・村上春樹は、ランナーでもある。これはよく知られている事実だが、この本を読むまでは、毎年フルマラソンやトライアスロンの大会まで参加する、熱心なランナーだとは知らなかった。これだけの国民的人気作家なのに、いまだに毎日10Km以上も走り込んでいるのも凄い。自ら長距離ランナータイプだと認めているようだが、毎日コツコツと何事も積み重ねることが好きな性分なのだろう。
ランナーとしての自分を語り、そして職業作家としての自分を語る。この本はそんな本だ。作家でありランナーでもある人は、世界中探しても希有な存在だろう。だから、ゴールに至るまでのランナーの心象風景を、リアルにここまで書ける人はそうはいないはずだ。しかしその割には、村上春樹の紡ぎ出す物語に、アスリートが登場しないのも不思議だ。ま~村上春樹の、乾いた暗喩に満ちた世界に、熱いアスリートの魂は似合わないのも確かなのだが。
とにかく、村上春樹がなぜ小説を書き始め、なぜランナーとなったか、その秘密を明かした、そんな本なのだ。