う~む、太宰治なのだ。しかも「人間失格」である。三十数年ぶりで太宰を読むことになったのは、社会に疎外された現代人が太宰を希求しているからだ、というのはウソで、津軽へ旅に出ることになり、津軽と言えば太宰と、実に単純な理由なのである。
昔から不思議だったのだが、なぜかこの太宰は、巷で人気が高い。太宰の自伝的小説であり、遺作と言われるこの「人間失格」も、最近になって文庫のカバーをイラストや俳優に変えて再販したり、ハタマタ映画になったりと、六十数年経った今でも相変わらず話題を振りまいている。
資産家の末っ子で、優秀で美男子にもかかわらず、アル中で、モルヒネ中毒となり、心中に失敗したあげく、廃人のような生活に落ちぶれていく男の生涯。作家が、その男の手記を読む形式で書かれた、太宰の最も著名な自伝的小説。
近代人の苦悩だの、仮面性だの、恐らくは星の数ほどあるであろう一般的な感想はさておき、我が輩の素朴な感想は、なんだ京極夏彦の小説に登場する作家・関口巽の陰々鬱々とした独白と同じだ、というしょーもないものであった。ま~「脚絆」を「レギンス」とルビを当てたりしていたのも発見ではあったのだが、やたら英語の表現が多かったり、句読点で文章を延々と接続し、長たらしい文章にするなど、まず文体が面白かった。ま~数十年ぶりで「古典文学」を読んだので、かえって新鮮だったのだが、京極小説をかなり読んでいるので読みづらくはなかったな。擬古文調の京極小説の方が、よほど読みづらいかもしれない。いや~すっかりこの手の文体を忘れていたが、如何に京極はこの時代の文体を忠実に真似ていたのか、今頃気がついた。
それにしても、文体はさておきこの小説の内容は、驚くほど最近の青春小説と酷似している。戦前から小説というものは、同じテーマを繰り返し繰り返し書き続けているようだ。

白岩玄の青春小説「野ぶた。をプロデュース」は、露骨に主人公・葉蔵を意識しているだろうし、というか、主人公の独白(モノローグ)が延々と続く青春小説なら、大概はこのような独りよがりの苦悩を描くことになるのだろうな。太宰より以前の「古典文学」は、夏目漱石か、芥川竜之介程度しかあまり読んでないので、このパターンの創始者が太宰かどうかは知らないのだが・・・。

とにかく、我が輩はこの小説を角川文庫で読んだのだが、「人間失格」の直前に書かれた、私小説風の短編「桜桃」と伴に、重鎮・壇一雄の解説があったり、年譜、注釈があったり、至れり尽くせりの構成であった。ま~この太宰の小説を読むためには、年譜があった方が理解が進むのは確かだ。しかし、小説とは本来、小説家自身とは独立していなくてはならないし、小説単体で評価すべきだろう。この小説の大半のエピソードが、たとえ小説家自身の実体験であっても、この小説の評価に影響を与えてはいけないのだ。
だから、その意味においても、この小説は読む価値は高いと思う。「人間失格」以降に登場した、有象無象の青春小説で、同じテーマが何度も書かれているはずだが、それでもこの太宰の小説は、今読んでも痛々しいほどの表現で若者の苦悩を描いている。人間は、いくら文明が発達しても、ちっとも変わっていない生き物だということが、実によく分かった。
しかし、それでもこの太宰の小説が、女性に人気があるということだけは理解できない。決して読みやすくなく、それどころか読むのが辛くなる程のストーリー。決して女性向けとも思えないのだが・・・。
それとも、ハンサムで母性本能をくすぐる、太宰治・本人に人気があるのかな~?