恩田陸にしか書けない、たった一幕の会話劇。千明と千浩。まだ若い男と女の心理ドラマである。
夜のアパートで幕が開ける。明日から別々に生活することに決まった、最後の晩、夜を徹して語り合う男女。もしかしたら、どちらかが人殺しだったかもしれない。疑心暗鬼の濃密な心理劇の末に、訪れる真実とは・・・。

僕が恩田陸を気に入ったのは、初期の頃の作品「黒と茶の幻想]とか、「木曜組曲」のような、傑作会話劇を読んでからだ。男女のグループが、山を歩きながらひたすら会話をするだけの話とか、家の中で姉妹たちがおしゃべりするだけの話で、これほどスリリングな小説を書けるとは凄い、と素直に驚いたのだ。

これらの小説は、登場人物の誰かが秘密を抱え、会話に嘘を交ぜたり、人を疑ったりすることでサスペンスを盛り上げている。しかし、この「木漏れ日に泳ぐ魚」ではさらにシンプルとなり、登場人物はたったの二人。しかもアパートの部屋で、一晩語り合うだけというシンプルな構成だ。たったこれだけの舞台装置で、小説にしてしまう恩田陸の職人芸には、感心してしまったのだ。

最初、この二人の関係性は隠され、会話を続けることで、次第に読者に秘密が明かされていくわけだが、この導入部分の緊張感ある会話が上手い。千浩と千明が交互に語る形式なので、お約束として自分には嘘をついていないはず。だから秘密は無いようにも思えるのだ。しかし事件は起きており、益々謎は深まっていく・・・。ま~ネタばらしをするわけにもいかないので、これ以上ストーリーを語れないのも困ったもんですね。

二人の会話の中身は、恩田陸にしては意外に珍しい男女の愛憎劇だ。しかし、やはりというか女性側の心理描写のほうが上手い。男は単純というか、いわゆる草食系男子の煮えきらない愛情パターン。しかし女性の方は、「好き」という心理を微細に自己分析してしまい、どこに本音があるのか、自分でも分からなくなってしまう。ま~感情というやつをいくら分析したところで、正解があるわけではない。堂々巡りに陥るだけだろう。

恩田陸は、そんな揺れ動く女性心理を鮮やかに描き出している。僕たちのような男にとっては、ほとんど理解不能な女性の言動も、恩田陸の筆力にかかると、理解できたような気分にさせられてしまう。見事なもんだ。
会話が上手い作家は数多くいるが、場所を固定して、会話だけで小説を成り立たせることができる作家は少ない。ポンポンとテンポよい会話や、やたらセンスがいい会話とか、会話が主体の物語は多数ある。しかし、秘密の核心に触れず、会話の中身は普通のおしゃべりのように見せ、しかも緊迫感を醸し出す物語は少ない。恩田陸の芸術的職人芸には脱帽してしまったのだ。

この作品は、恩田陸の膨大な作品群の中で、特に傑作というほどではない。しかし、時々ある竜頭蛇尾な結末に陥ることもなく、安心してお勧めできる心理サスペンスなのであった。