Googleによるドライバーレスの自動運転カー、いわゆる「グーグルカー」がアメリカの道路を走り回っている映像が公開されたことで、自動運転カーの認知度が広まったことは確かだろう。すでにテスラは、自動運転機能を搭載したモデルを発売している。2016年10月には完全自動運転機能のModel Xを公開しており、デモ画像もある。しかし自動車メーカーであるテスラモーターズの自動車は、当然のようにステリングホイールはある。グーグルカーのデモ映像では、ステアリングホイールが見当たらない自動車だったので、そのインパクトは大きかった。

「自動車」は、その名の通り「自動化」を追求してきた。カーエアコン、パワーウィンドウ、オートマチック・トランスミッション等々だ。クルーズコントロールやABSでは、アクセルやブレーキにまで進出してきた。しかしステアリング操作だけは最後の聖域だった。

自動車メーカー各社のエンジニアに、自動運転への対応状況をインタビューした記事を読み驚いたことがある。それはすべての自動車メーカーに共通して「運転操作を楽しむ」という設計思想が、大前提にあることだ。運転操作を嫌いな人間が、自動車メーカーに入社するわけはないので、当然なのかもしれないのだが。それにしても、運転操作が不要なドライバーレス・カーは、まったく想定していないと言い切ってしまう姿勢はどうなんだろう。
少なくとも私は、自動車を運転することは面倒なだけだ。自動車は何台も買い換えてきたし、数十年間は運転しているが、私にとって自動車とは単なる移動手段の一つでしかない。
アメリカでの調査資料だが、30歳未満の人たちの大半は、運転が退屈だと考えている。自動車の運転に対する考え方は世代によって大きく異なり、若者たちはその祖父母の世代に比べて、運転に対して思い入れがないのも事実なのだ。

自動車メーカーは自動運転を、手動運転から協調運転そして自動運転と、段階を踏んで進化させると主張しており、政府関係機関もこの方向性を了承している。ここでの「協調運転」とは、ステアリング操作を自動車が部分的に行い、人間も操作可能にしておくというものだ。しかも自動車メーカーの想定している自動運転とは、ステアリングホイールは常にあり、いつでもドライバーは運転操作が可能な状況にあるものだ。特に意外だったことは、高齢者にはできるだけ運転させて、認知機能を維持してもらうことが大切だと語っていることだ。「機械はあくまで人間をサポートするもの」という大前提があるので、このような設計思想になるのだろう。

現代における自動車産業は世界的な巨大産業となっており、世界経済を支えているといってもよいだろう。そのためGoogleのような新参者が、ドライバーレス・カーなどのような運転操作不要の自動車を出してしまったら、自動車産業全体を揺るがしてしまう。自動車はあくまで移動の手段であり、いつでもどこでも自動運転車が来て運んでくれるのが常識になったら、自家用車は不要になるだからだ。人間が運転するタクシーはもちろん、シェアリングエコノミーの覇者Uberのサービスも廃れるはずだ。
だからうがった見方をすると、自動車メーカーの主張は、自動車産業全体を保護し、少しでも完全自動運転への移行を遅らせるためのように聞こえてしまう。自動車メーカーは、安全で安心のために自動運転を目指しているという。それなら不完全な人間の運転操作より、想定可能な環境下において、完全自動運転の方が低い事故率となった時点で、中途半端な「協調運転」などは止めて、ドライバーレスの自動運転にすべきではないだろうか。

現時点では、ありとあらゆる環境下でも安全に運転できる「完全自動運転車」はできていない。というかタイヤで高速に道路を走行する自動車という機械の構造上、不可能なのかもしれない。しかしこれは、人間のドライバーが運転しても同じのはずだ。それどころか、酔っ払い運転、居眠り運転、わき見運転をしてしまう人間の方が、よほど危険な気がする。
ディープラーニングのおかげで学習機能を持てるようになった人工知能技術は、何百万キロという膨大な運転記録で学習をしている。大半のドライバーより運転経験を積んでいるはずだ。「トロッコ問題」のような非常事態での人間の生死判断は、人間のドライバーでさえ瞬時には判断できない。100%の安全性を求めていたら、永遠に完全自動運転はできないだろう。毎年、世界中でおよそ120万人が交通事故で亡くなっているのだ。少しでも事故率の低くなる技術があるなら、運転の楽しさを求める技術より、優先するべきではないだろうか。