プロローグ
「君は、なんてことをしてくれたんだ!!クビだよ。クビ。こんなことを大学でしでかしたら、大きな信用問題になるんだよ。そんなことも分かっていなかったのか!」
普段は温厚で好々爺の学長が、顔を真っ赤にして怒っていた。天馬は、とりあえず殊勝な顔をしてうなだれていたが、頭から湯気を出すという慣用句は、こんな場面で使うのだろうなと、ぼんやり考えながら聞き流していた。それにしても完璧にデザインしたはずの計画が、どこで失敗したのか、天馬は思い返してみた。
見渡す限りの青空に、綿アメのような雲がポカリ、ポカリと浮んでいる春麗らかな日だった。天馬は、緑がまぶしい広大な研究開発センターの敷地の中を、せかせかと歩いていた。早朝から電車を乗り継ぎし、地方都市の郊外に建てられた、古くからあるある化学系企業の研究開発センターに、やっとたどり着いた。しかし受付で指示された研究棟は、まだまだ遠そうだ。初回の講義は朝10時開始なので、多少の余裕はある。しかし天馬は、研究室に残してきたマリリンが心配だった。飛雄はそれなりの実績があるので、数日放置していても問題はないはずだ。しかし、まだ学習が進んでいないマリリンと2日間も離れるのは初めてだった。まあオンラインで講義にも参加してもらうので、その様子はモニターできるし、何も問題はないはずなのだが。
現実問題として、この企業からは多額の研究資金を提供してもらっている。天馬がこの依頼を断れるわけもなかった。しかたなく学生向けよりさらに易しい、初心者向けの人工知能講座を、天馬はバタバタと作成した。そして遠路はるばる、この地方都市まで駆けつけてきたのだ。
たどり着いた大きな研究棟の入口で、天馬は受付でもらった認証カードをタッチして入る。朝日が斜めに注ぎ込む、巨大なガラスで構成された無人のロビーを、天馬は通り抜けた。外から丸見えのエレベーターで、天馬は指定の4階会議室に向かう。やっとたどり着いた会議室の前には、人事の社員と思われるニコニコした小柄な女性が待っていた。社員に促されて会議室に入ると、受講者らしき数名の若い男女が、興味津々の顔で天馬を見つめていた。
人工知能講座 第1日
人工知能研究の歴史
日登美さん「人事の日登美です。ただ今から、第一回人工知能入門講座を開催します。それではさっそく、講師の方を紹介させていただきます。今回の講座を担当していただいてもらう天馬先生は、弊社が研究を委託している東都大学で、長年人工知能を研究なさっている助教です。特に自然言語処理の分野では有名で、学会で論文を多数発表されていると伺っております。今回の講座のために、わざわざ遠いところからお越しいただいていますので、若手のホープであるみなさんも、しっかりと学んでください。それでは天馬先生2日間ですが、よろしくお願い致します」
天馬「ただ今紹介してもらった天馬です。2日間の長丁場だが、お付き合いを願います。座学では気も緩みますし少人数なので、みなさんをバシバシ指名して質問しようと思っているのでよろしく。みなさんも不明点があったら、積極的に質問をしてくれたまえ。それでは講義を始める前に、私のアシスタントを紹介しよう。日登美さん、事前に伝えてあるPCとプロジェクターはセットアップしてありますね」
日登美さん「はい天馬先生の指示通りに、外部ネットワークと接続されたPCを用意してあります」
天馬は自分の大学のネットワークに、企業から借りたPCでログインして研究室のマリリンを呼び出す。壁にある大きなスクリーンから光が溢れると、受講生たちはざわついた。そこには豊かなブロンドの髪とグラマラスなボディを持つ、アフロディテのような女性が、笑顔で立っていたからだ。
天馬「それでは僕のアシスタントであるマリリンを紹介しよう。彼女は僕の研究室で、日本語を学びながら講義の準備や研究の手伝いをしてもらっている。すでに日本語に大きな問題はないので、自己紹介してもらおう。ではマリリン自己紹介してくれ」
マリリン「ハーイ!私はマリリンです。オンラインですが、今回の講義のサポートをしますので、日本語はまだまだだけど、よろしくね」
天馬「おい君たち、いつまで口を開けてマリリンに見とれているのだね。僕が名前を覚えるためにも、順に自己紹介をお願いするよ」
伴くん「あ、はい。伴です。化学が専門ですが、この分野でも人工知能を無視できないので参加いたしました。よろしくお願いします」
愛さん「初めまして、敷島愛です。営業部に所属しています。私の部署は、人工知能の知識が必須ということではないのですが、最近クライアントと話すと必ず話題になるので、参加させていただきました」
猿田くん「しかし天馬先生は、凄まじい美人と仕事をしていますね。うらやましい限りです。あ、失礼しました、ボクは猿田です。情報システム部門ですが、上司が人工知能を理解していないと、今からは生き残れないぞと脅されたので、これから勉強しようと思ってます」
天馬「おや猿田くん、人工知能を理解していないと、どうして生き残れないのかな?」
猿田くん「いやまあ、それは上司が言ったのですが、これからの時代は人工知能が仕事をどんどん奪っていくので、まず敵を知れば百戦危うからず、じゃないでしょうか」
天馬「正しくは、『彼を知り己を知れば百戦殆からず』だ。孫子の言葉だぞ。では伴くん、君も人工知能を敵だと思っているのかい?」
伴くん「いいえ。人工知能を今から学ぼうとしているのに、敵などとは思ってなどいません」
天馬「敷島さんは、人工知能に対してどんなイメージがあるかね?」
愛さん「私はコンピューターのソフトウェアに対して、特に感情などありませんが。ただ人工知能という言葉に対しては、漠然とですが不安を覚えることもありますね。しかしこれも、人工の知能などというネーミングをすることが、誤解を招いている主な原因だと思っています」
天馬「なるほど、よい答だ。ではちょうどよいので、なぜ僕が敷島さんの答を、よい答と言ったのかの説明から始めよう。マリリン最初のスライド『ニューラルネットワークの歴史』を出してくれ」
天馬「今回の講座は人工知能講座という名前になっているが、人工知能などというものは世の中に存在しない。少なくとも現時点ではないと言い切れる。この講座名は、ここの人事部からのお題だ。機械学習や深層学習を昔から研究している研究者にとって、人工知能という言葉は、かつてはタブーに近い言葉だったんだよ」
猿田くん「え!どうしてですか。今の世の中は、人工知能という言葉が大流行じゃないですか。囲碁のチャンピョンを破ったGoogleとか、このスライドではDeepMindとありますが、このAlphaGoは、人工知能とみんなが呼んでいますよ」
天馬「その通りだ。困ったことにマスコミのおかげで、以前なら機械学習の応用としてのデータ分析まで、今では人工知能とかAIの成果とか平気で使うようになっている」
愛さん「なぜ人工知能という言葉を、研究者たちはタブー視するようになったのですか?」
天馬「それを今から説明しよう。スライドにあるように、今回の人工知能ブームは、実は3回目だ。このスライドでは正しくニューラルネットワークと書いてあるが、みんなが生まれる前にも何度かブームがあった。最初は1950年頃だ。君たちの想像以上に、昔から人工知能の研究は始まっていたのだよ」
猿田くん「そんな昔から、コンピューターがあったのですか?」
天馬「いや、最初に人工知能と呼ばれたものは、アナログ回路で構成されていた。そもそもコンピューターとは、思考する機械を夢見たアラン・チューリングの思想を具現化したものだ。人工知能とコンピューターの長い歴史は不可分だから、世界で初めてコンピューターの概念を作り上げた天才アラン・チューリングの物語から話を始めよう」