文科省は2015年の6月、全国の国立大学、大学院に対し、人文社会系学部の廃止などの組織改革を進めるよう通知した。同省の言い分はこうだ。「少子化で子どもの数が減少していることへの対応が必要。日本を取り巻く社会経済状況が急激に変化する中、大学は社会が必要とする人材を育てる必要がある」と。
確かに大学は深刻な少子化に直面している。高校を卒業する年齢である18歳人口は1992年度の205万人をピークに、2031年度には100万人を切り、半減する見込みなのだ。教員養成系の縮小などは、避けられない状況ともいえる。
大学生に関するデータを見ると、2014年の学生数は、国立45万人、公立13万人、私立198万人の計256万人。文系を人文科学、社会科学、教育の学部生とすれば、国立大の文系比率37%、公立大文系比率44%、私立大文系比率59%で、大学全体の文系比率は55%だ。
文系比率を20年前の1994年で見ると、国立43%、公立60%、私立68%、合計で63%。ここ20年間で文系比率は、国立で▲6%、公立で▲16%、私立で▲8%と、すべて低下傾向である。この動向の意味をどうとらえるかなのだが。
まあ根っからの理系である僕としては、これらの数字を見た感想は、意外に理系の学生は多いのだな、というものだ。手元には40年前のデータがないので、僕のイメージ、つまり理系はマイノリティという感覚は確かめられない。もっとも、僕の少年時代はアポロが月に着陸し、万博で日本が沸いていた科学万能の時代だった。SF大好き少年だった僕は、理系を選んだのも当然だった。当時大学とは、『高度な教養』を身につけるための最高学府であり、当時必修だった一般教養とは、古典的な哲学、社会学、語学や文学だったはずだ。理系、特に工学のような実学などは、決して「教養」などではなかったと思う。しかし今からは、未来は、理系の時代になるはずだ、と当時の僕は漠然と感じていた。
それにしても国立文系出身が大半のはずの文科省の役人が、まるで自己否定のごとく「文系学生は不要だ論」とは面白い。ま~面白がっていてはいけないのかもしれないのだが、何を考えているのかが分からない。確かに文系つまり人文社会系の象徴である文学、哲学や社会学などの専門知識は、出版関係の企業でもないかぎり、就職の役に立たないのは、昔も今も同じだ。だから今更何を言ってんだろう、という気もするが。
実際には経団連や財務省あたりから、『企業が求めているスキルを養成しろ』という強い要望があったのだろう。少子化の影響で、大学進学率が50%を超えているにも関わらず、私立大学の半分は定員割れとなっている惨状だ。このため学生の質の低下が著しく、大学は大昔からのアカデミズムを守れるわけもなく、「高度な教養を身に付ける」などは絵にかいた餅となってしまった。だから現実路線として、「実学」である工学を学ばせる方が日本にとって良いと考えたのだろう。少なくとも、大量の税金を投入している国立大学は、そうしろと言っているのだ。
ま~ビジネスの観点からだと、衰退産業である大学経営への指導としては、間違ってはいない。もっとも実学重視なら、高専や専門学校の方が効率的にスキルは身に付くと思うのだがね。やはり「学士」という肩書は必須なのだろうな。だから「専門職業大学」構想を、文科省が現在検討しているのだろう。
しかし大学経営をビジネスの観点、すなわち金儲けの観点だけで捉えても良いのだろうか?という素朴な疑問があるのは確かだ。文科省の通知の前提である「社会的要請」があるからとは、とんでもなく短絡的思考のように思える。
日本という国家レベルで考えた場合、国力を維持するためには、確かに「実学」の有用性は必須だ。しかし、実学は目前の課題解決には長けているが、長期的課題の解決には不向きだ。国家の運営を、企業経営に置き換えた場合だと、今期の営業利益を稼ぐことはキャッシュフロー上、取りあえず必要な事だ。しかし、5年後、10年後にも企業が存続するためには、R&Dなどの地道な先行投資も必要なのだ。
実学というものは、取りあえず目先の食い扶持を稼ぐのに必要な学問だ。だが、長期的視野を元に、先を見据えた思考方法となると「歴史的視座」や「哲学」、「思想」となるのではないだろうか。すなわち、これこそ人文社会系の学問の意義、「古典的教養の力」なのではないだろうか?
様々な情報が氾濫し、「オデュッセイア」(ギリシャ神話)と「ロードス島戦記」(アニメ)が同列に扱われ、「孫悟空」と言えば、「西遊記」ではなく「ドラゴンボール」しか知らない世代が増えている時代。夏目漱石や太宰治の小説を読んだことはなくとも何も問題はないが、「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」を知らないとバカにされる世代。
あまりに莫大な知識が積み上げられてしまった現代では、ちょっと住んでいる世界が異なっただけで話がまったくかみ合わなくなっている。インターネットを自在に操れる人と、そうでない人の間には断絶が生まれ、「デジタルデバイド」が広がる。こんな状況の日本における「一般教養」は、どのように定義し、どう若者に教えるべきなのだろうか?