数年前のベストセラー新書「里山資本主義」では、『外国から輸入した化石燃料でのエネルギー多消費社会から脱却し、地域に根差した自然エネルギー「里山」で、地域循環型経済を構築しよう』と呼びかけていた。この地域循環型経済は、国家レベルでみるとゼロ成長であろう。
昨年の話題の新書である水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」では、『長らく世界に君臨してきた「資本主義経済」が、とうとう終焉の時を迎える。資本家だけに富が集中する「強欲資本主義」となってしまった現代は、多数を占める中間層にメリットがないため、資本主義を支持しなくなり、やがて終焉を迎えるのだ』と書き、「ゼロ成長の勧め」が結論だった。
今年日本で大ブームとなったピケティも、『資本家に富が集中していき、世界的に階層化社会に移行しつつある』と、水野和夫の説を補強するような内容だった。
そして先日の新聞に、社会学者・見田宗介の発言として『人類という生物は、近代になって爆発的に増殖したが、環境の限界によってスローダウンしていく。やがて環境にうまく適応できれば安定した平衡状態に達するが、環境資源を食い尽くすと滅亡する。したがって成長をやめれば、今よりずっと幸福な社会が訪れる』という内容の記事があった。
ここ数年で同時多発的に、このような「ゼロ成長を是」とするような言説が流行り出している。僕が社会人になってからず~と、高度経済成長の時代が続いていたので、経済は右肩上がりするのが当たり前だったし、何の疑問も抱かなかった。僕の上の世代である「団塊の世代」なら、なお一層その感が強いはずだろう。
僕は経済学者でも社会学者でもなく、一介のエンジニアでしかない。だから、もしかしたら以前からこのような、言わば『経済成長不要論』があったのに、僕が知らなかっただけなのかもしれない。しかし、「里山資本主義」は2014年の新書大賞、「資本主義の終焉と歴史の危機」も2015年の新書大賞2位だ。少なくとも、このような言説が世間一般的に流布してきたのは、ごく最近の事なのだ。
水野和夫もピケティもそうだが、経済成長することが大前提の資本主義経済が、崩壊していく「理論」を構築できているわけではない。歴史や過去のデータを分析した結果としての推論だ。また、資本主義に代わる経済モデルも構築できたわけでもない。
見田教授の言説は、古典的な「ロジスティック曲線」を用いて、人類の成長にも限界点があることを説明している。しかしこの数式自体が「個体群生態学」を説明するために考えられた、実態に即した近似式なので、この数式通りに物事が動いているわけではない。
だがまあ、人類も個体群であることには間違いないので、このモデルを適用しても不適切ではないはず。また、見田教授の『環境資源を食い尽くすと滅亡する』という考えは、至極当然だろう。もしかしたら近年の『少子化現象・草食男子・同性婚』など一連の世界的文化の変容は、人類が無意識に人口抑制をしようとしているのかもしれないし。
とにかく日本としては、アベノミクスのような古典的経済振興策ではなく、『ゼロ成長経済』を大原則とした政策が必要なはず。しかし経済成長せずに、このグローバル化された世界の中で国民全体が貧することなく生活するなど可能なのだろうか?
江戸時代、日本は鎖国していた。つまり国内の資源だけで、およそ2600万人と推定される全国民の食料もエネルギーも自給できていた。逆に言うと、当時の食糧生産能力では、2600万人が『適正人口』だったのだ。つまり『ゼロ成長』とは、言わば鎖国しても自活できるような状態なのだろう。そう考えると、人口は『適正人口』以上に増やさない方がよいはず。
日本は地政学的にみると温暖で四季もあり、食糧を自活するには世界的にも恵まれている方だ。エネルギーの大半は、現時点で輸入に頼っているが、化石燃料はいつまでもあるわけではない。さっさと再生可能エネルギーに取り組むべきだろうな。まあ、ここらの考え方は、それこそ「里山資本主義」と同じ。この考え方は地域レベルの話だったが、これを日本全体で取り組むことは可能かどうかを、まず検討する必要があるだろう。
う~む、ここまで天下国家を論じて大風呂敷を広げてしまうとは、書き始めは思ってもみなかった。しかしここまで書き散らかしたからには、後始末をしなければならないか。
エネルギー多消費社会と再生可能エネルギーについて、輸入食糧と地産地消について、そしてAIの進化と雇用問題について等々。もう少し時間をかけ、考えてみることにするかな・・・